暇のための暇なし

やる気の波が激しめな地方の20代共働き女性。いろいろなことを広く浅く。本の感想にはネタバレが含まれていますのでご注意ください!

「火花」を読んで

今更ながら又吉直樹さん著の火花を読んだ。

芸人さんが書いただけあって、登場人物たちのやりとりが暴力的に面白い。会話、発想のパワーで笑わせてくる正しく漫才のようなやりとりのお陰で純文学に全く馴染みのない私でもぐいぐい読み進めることができた。

特に冒頭のあほんだらの漫才が好きだ。とても面白いので、この漫才のために捻り出したのではなく、作者の積年書き溜めたネタ帳から良い感じのやつを持ってきたんじゃないかと邪推してしまう。

 

冒頭から場面が変わると、いきなり主人公と神谷がお笑いについて語り合うシーンになる。

この「笑いとは」が本書のテーマの一つでもある。

主人公と神谷に笑いを語らせる中には、作者の思想が如実に表れているように思う。

 

「漫才は面白いことを想像できる人のものではなく 、偽りのない純正の人間の姿を晒すもんやねん 。つまりは賢い 、には出来ひんくて 、本物の阿呆と自分は真っ当であると信じている阿呆によってのみ実現できるもんやねん」

 

神谷が「笑い」とはなにかを語るときは、言葉は強度を持って読者に届く。おそらくほとんどの読者は「笑い」について作者ほど真剣に考えたことはないだろうから、なにか説得力があるように感じるのは当然だと思う。

 

一方で、「笑いを職業にすることとはなにか」というもう一つのテーマが語られるときには、登場人物たちの思想は覚束なくさまよい、行ったり来たりを繰り返す。

自分が面白いと思うものを貫き通すこと、世間から求められる笑いをやること、常に面白さだけを追求し馴れ合わないこと、人の中で上手く立ち回り気に入られること、どちらをとるべきか、それらは果たして択一的なのか、漫才師としてあるべき姿はなにか。

主人公の神谷への気持ちも憧れと憎しみの間を行き来する。

 

主人公がお笑いを辞めた後も、神谷は漫才師であり続ける。

 

 

 

私は音楽や絵画で心から感動したことはないし、お笑いや小説を芸術と思ったことがない芸術に全く素養のない人間なので、正直神谷が「お笑い」について語っていることの半分も本当には理解できなかった。

ただ、芸術という分野のものに本気で打ち込んだことのある人間にしか分からないもので、だからこそ価値があると評価されたのかもしれない。

 

夫は火花を読んで、「神谷みたいな破天荒なキャラ、リアリティがない」と怒っていた。

私は学生の頃ネット大喜利にはまったことがあって、そこには周りに攻撃的で排他的で表現の手段を選ばない人たちが存在した(でも、そういう人たちが本当に面白い人だった)。

だから、芸人の世界にもより頑なで手段を選ばない人が存在するのは当然だと思う。

今活躍してる芸人をテレビで見てると、この人たちはお笑い芸人という職業を選んだんじゃなく、お笑い芸人にしかなれなかったんだろうなと思う人ばかりだ。彼らがこの理不尽なことの多い社会で自分と折り合いをつけてやっていけるとは思えない。

赤ちゃんが母乳を飲んで寝ることしか知らないように、お笑いしかできない人がお笑いの世界にはいるんじゃないだろうか。

 

ラスト、神谷はどこまでも自分のお笑いを曲げない。

主人公が即座に神谷を諭したのは、作者の優しさのようなもので、笑いのためにこんなことしちゃう人もいるけど悪気はないんですよという擁護のように聞こえた。

 

確かに、芸人にしか書けない小説であったと思う。